十二日目

佐々木中『九夏前夜』
ペンのインクを変えた(ペンで書いてたの?)。これまた白川静の影響で、一人一人の頭の中に、漢字が形象としておさまっていて、それを自分の手で(白川静によれば、漢字によって書かれた最も古いものは、硬い表面にナイフできざみつけたり、金属をとかしこんでいれる型にヘラで線を入れたりする、という感じのものばかり残ったらしいけど、それはつまりそういうものしか残らなかったというだけで、その頃から漢字は筆のようなもので書かれ、その証拠も「書」という字の中に入っている、らしい。だから「刻む」というのは漢字の初期の意味での「刻む」ではなくて比喩的な意味の)刻むということが、なにかしらの(自分が表現したいもの、を単に相手に伝える、という一方通行の「表現」ではなく、自分と表現されたものの間のサイクルとしての)表現になるんじゃないか、と思うようになった。
白川静は徹底して漢字の起源のかたち、だけを見ている。「見」という字だったら、現在のこの、上部に二つのしきりがあるタテ長の箱の下に、足のようなものが付いているこの形、ではなく上部の「ハコ」の短い辺が閉じて、縦の辺がふくらんで弧のようになって、つまり上部が本当に縦にした「眼」のようになって、それに足が付いているという風になっている。そのように、現在の形とはぜんぜん違う、「金文」とか「甲骨文」とかいう時代の形のみから、それぞれの漢字が一体どういう意味を持っているのかを考える。
「のみ」じゃない。それがどういう変化を経て今の形になったのか、それこそ現代に起こった「旧字から新字へ」という変化まで視野に入れている。「隱(隠の旧字)から、神が隠れる道具である「工」を抜いてしまったら、神が隠れることができない」みたいな言い方をして、その決定的な、しかも漢字が今までしてきた省略法にものっとっていない、意味のない省略へのなげきを隠さない。それでも、そういうことにはたまに触れるけど、研究のアクセントはあくまで「金文」「甲骨文」の方にある。
でもでも、その白川静はエッセイでは、そうやって完全にダメになる前の「隠」という字を使うのでもなければ、ましてや「金文」「甲骨文」の文字を使うわけでもなく、「新字」を使って書いてくれる。
それは「そんな昔の字を書いても、誰も読んでくれない」という理由では、たぶんない。それもあるかもしれない。だけどそれだけじゃなくて、「目をつぶされ耳をそがれて、かろうじて息をしているような状態であっても、それでも私達にその豊かな世界を見せてくれる」今の漢字というもの、それをやっぱり愛しているからこそ、現代の表記を使っているんじゃないかと思う。
(ここにくるまで「白川静自身がはっきりそういったところはたしかなかったし、少なくとも覚えてはいない」と思いこんでたけど、「目をつぶされ、……」なんていう強い言葉は、白川静からしか出てこないし、急にこれをどこかで読んだことをぼんやりと思い出した。たしかにどこかで言ったに違いないけど、どこなのかわからない)
(続く……?)

十一日目

佐々木中『九夏前夜』
まだ十一ページ(現在)しか読んでないけど、それでもすでに、自分の小説を読む読み方を徹底的に改める、今までの人生でも何度あったかわからない改変が起こるに足る長さだったらしい。先日ふつうの人に、まだ途中までしか読んでない小説を勧めたら、「ひどいw」と言われた。全部読んでから勧めるのが当然だという意味らしい。しかし、これから『九夏前夜』を読み進める上で、今日感じたこと以上のことを、もしくは今日感じたのと同じくらいの興奮を維持できるかどうかは、全くわからない。「小説は読んでいる時間の中にしかない(保坂和志、多数)」。「読み終わると遠のいてしまう高揚感が小説にはある(保坂和志、『小説の自由』中公文庫、109ページ)」。
内容に入るかな? まだ早い気がする。自分は保坂和志の有名な(簡潔すぎる)文体論、「文体とは文字の表面のこと、漢字の使い分けや、まして『です』と『である』の違いではなく、その文章に入っている情報の量、かるさ/おもさ、はやさ/おそさ、身体性の反映であるところの語順、などによって決まる」というのを、これまた徹底的に信じていた。その結果、(こう言っていいのか)詩的な文章(一語一語ゆるがせにしない、と言いたげな文章)、凝った漢字を使う文章に対して、無条件に(、無根拠に)警戒するようになった。
それをやぶるきっかけはすでに白川静によって与えられていた。「……そしてその間のふとした失の襞ひとつひとつに、その然としたかすかに濁った……」(『九夏前夜』、12ページ)なんていうところに会うと、これはもしかすると「ボー」で韻を踏んでいるのかもしれないけど、それ以前に、部品「亡」が共通しているから、なにかしら通じる意味があるのかもしれない……なんてことをふと思うようにはなった。ここがどうなのかはともかくとして、「見た目を表現として使う日本語」という風に言った白川静の言葉がさっきのべた、ある意味でギャクに強硬な文体観にゆるみを与えてくれた。
(続く?)

十日目

ようやく、本来の目標だった「十日間」までたどりついた。「今まで読んだ本の再読」のつもりが、いつの間にか「今読んでいる本」に変わってしまった。でも「昔どんなことを考えていたか」をさぐるのは限界があるし、結局は今考えていることが反映されざるをえない。
ブランクもたくさん挟んでしまった。
佐々木中『夜戦と永遠』白川静『文字逍遥』
今日ようやく、図書館で長いこと予約していた、佐々木中の『夜戦と永遠』が届いた。東京ではだいたい区ごとに本のゆうずうが効くようになってて、同じ区なら別の図書館の所蔵している本でも最寄りの図書館に届けてくれたりする。逆に違う区になると、そもそも貸し出しのシステム自体が違ったりして、取り寄せてもらったりするのは手間がかかる。半分くらいの区では「隣接する区に在住/勤務していればカードが作れる」あるいはもっと気前良く「東京在住であれば誰でも作れる」というところまである。なので他の区にある本が欲しくなったら、そこまで行って借りることになる。
とにかく東京では本は区ごとでゆうずうが効くようになっている。わが区には、『夜戦と永遠』は一冊しかなかった。
この一冊は二年前に刊行されたもの、にも関らず、わが区では今だに予約待ちが続いている。これはたぶん、小説でもない小難しい本だと思えば、相当人気のある方だと思う。
自分も含めてその人たちはみんな、自分の金は使わず、この本の内容を頭におさめようとしている。保坂和志はこの本について、「映画を二、三回見るだけの金だと考えれば、そんなことよりぜんぜん得るものがある」といつもの言い方で(『ミシェル・レリス日記』と同じ言い方)、6000円の安さをいっていたけど、自分には、今は本当にお金が無いので……。でもいつかは、この一冊を買いたいと思う。だいいち、『切りとれ、あの祈る手を』に関しては、「これをあと何冊も買いたい」という変な気持ちまで起ったくらいだった。その何冊か分で、ちょうど『夜戦と永遠』が買えるんだから、ちょうどいい。
とにかく『夜戦と永遠』が届いた。三週間したらまた返して、自分の番が回ってくるのを待たないといけない。それがもどかしくなったら、買うことになるでしょう。
はじめに、筆者は本当は書きたくなかった(なぜなら「序」を書くということは、いささかなりともこの本全体を俯瞰することになり、書いているときに生成されつつあるものに目が向かなくなってしまうから)「序」の中で、ラカンと、フーコーと、ルジャンドルが、その対立していた当の舞台とは別の場所で、「共鳴」し「唱和」している、と書いてあった。なにこの符合?
その射程は現在まで続いていて、というかそれが「永遠」に続くたぐいのものらしい。ワクワク。
ところで、ラカンの「大文字の他者=女性の享楽」というのを、軽くでも把握していないどころか、それに該当する箇所(セミネールの)を読んですらいないけど、そんな状態で『夜戦と永遠』を読み進めて、いいものでしょうか。今も『自我』はうちにあるけど、それを復習してからの方が。でもそうしているうちに、たぶん三週間過ぎてしまう。だいいち『切りとれ、あの祈る手を』を読んだときにも、コーランをさらったわけでもないし。でもそれとは話が違う気もする。とにかく読んでみよう。少なくとも「セミネール」でいっている「主体」の「正体が知りたい」。いや、本当は知りたいわけじゃない。知りたいといったら、「解釈学的な罠」にはまってしまう、らしい。「主体」という言葉を使ううちに、その使い方がグネグネ動いていくものだとしたら、そのグネグネを楽しみたいという、そういうことをいちいち言うのはハンザツだから、「正体を知りたい」と、いってしまった。それよりも、

……つまり、ラカンを読む者が、読むことを通じて自らを欲望の主体として発見することになるように、彼は自らの発言と文章を設えたのだ。読むことが、知見の単なる移動に終わってはならない。ひとつの苦難であり、困難であり、試練であり、鍛練であり、欲望の劇場でなくてはならない。霞む目を凝らしテクストを読みあてどもなく切れ切れに続く理路を追いノートを取り概念の輪郭を追おうとする作業が、ある惑乱のなかで欲望をそそり続けることになるように。そしてその欲望こそが読む者をラカン的な主体に成形するものであるように。そう、彼はそのことをこそ望んだのだ。ラカンの難解さは、ラカン的主体を生産するためにある。難解さに挑戦し、それをなんとか読みこなすこと、そしてその概念を操ってみせること。その長い課程の最中で、少しずつ考えばかりではなく挙措すらをも曲げ撓められていくこと。これが、ラカン的なる主体を作り出す製造過程なのだ。
(『夜戦と永遠』、23-24ページ)

という、まあ本文がはじまってすぐのところだけど、これが気になってしょうがない。ええ? ラカンの「セミネール」を読んでたら、いつの間にか「ラカン的な主体」にされちゃうの? というか、もうすでにたった一冊だけど、『自我(上)』は読み終えちゃったから、もう「ラカン的な主体」にされちゃってるの?
冗談は、というか半分の冗談はさておき、自分はよく評論とかで見かけるような、急に日常語からモードが変わって「ラカン語」を使いはじめる人とか、もっというと(実際にここまでのレベルになっている人がいた)、なにを喋っていても「ラカン語」を使わずにはいられないような人とか、を見てきたけど、そういう人間にだけはなるまいと思っていた。だって、何言ってるか全然わからないし。後者の実際にネットで見掛けた人に関しては、あきらかに、その他の人に言ってることが通じていないというのがわかっていて、その通じないことを言っていることに酔っているようにしか見えなかった。そして、「自分の言っていることが正しいオーラ」が、発散され続けていた。そんな人間にだけはなりたくない、自分だけはラカンを読んでいても「ラカン語」をペラペラと喋り出すような人間には、……。
でも(そう言われてはじめて、さっき言った「ラカン語」を喋りだす人がなんであんなに出現するのかわかったけど)佐々木中に言わせると、ラカンの難しさ、結局何言ってるのかわからなさが「機能」して、「ラカン的主体」を生み出すようになっているらしい。
でも、なりたくない人ですけど。読めば、狂うしかないんでしょうか。教えて下さい、佐々木中先生。
まだたった七ページしか読んでないけど、以上のようなことを考えた。あと600ページ強余ってる。


 だから、ラカンの概念をとりあげてそれは結局のところ一体何なのかと問い詰めていくことはさして意味はない。わかろう、わかりたいと思うことは無駄なのだ。はじめからわからないように設えられわからないことによって機能する概念のまわりで右往左往すること、それは無益なばかりではなく滑稽ですらある。わかろうと思うから、わかりたいと思うから、わからない時に怨恨を抱かなくてはならなくなる。そしてわかったときにそれを説いて回りたくなるのだ。そうした茶番をわれわれはもう長く見過ぎた。……
(『夜戦と永遠』、24ページ)

なるほど! さっそく自分がこれまで抱いてきた、第一の疑問が、本文はじまってからまだ十ページも過ぎないうちに、解決された。つまり、前に自分が挙げたような人々は、「そしてわかった時にそれを説いて回りたくなる」人々だったわけで、ラカンを読んでも、そうならないための方法が、あるわけですね。
それで、その方法とは……(自分は、こうして、ある意味でガンコに、必要以上にフランクな言葉遣いをすることによって、そうならないのではないかと思っているらしい。でも、そんな「ラカンの入門書」やら「ラカン批判」もあったのを覚えている。それらはもしかすると、いやきっと、自分と同じように、「そんな語り方をはじめたくはない」と思っているのかもしれない。それらは「要するに、……」という言葉を使うに違いない。自分はそれも「どうなんだろう……」と思う。それらには、「ラカンは征服してやった!」という気配が感じられる気がする)。


……あたかも、彼の蛇行する理路のなかでは、言語のなかに実は現実やイメージのすべてがあり、イメージのなかにも現実と言語のすべてがあり、現実のなかにもイメージと言語のすべてがあり、そしてそれらのすべてが何かさまざまな場所に散りばめられた穴のまわりを回遊していくかのようだ。……
(『夜戦と永遠』、26ページ)

なるほど! だから、自分が前の日記に書いているようなことが書けて、しかもそれについて、なんとなくでもわかったような気になれていたわけか。
自分は意図的に、「セミネール」のほんの一部だけをしつこく引用して(あるいは都合良く引っ張ってきて)、その言葉通りに、考えてきた。そしたら、おぼろげながらも、「象徴」とか「主体」とかについて、わかったような気になってきた。わかってきたような気になりつつ、「あらゆる人々を悩ませてるラカンが、一部を切り取ったにしろ、だんだんはっきりとしたものに見えつつあるのは、どっかおかしいんじゃないか」とも思えていた。その感じこそ正解だったらしい。
「言語のなかに実は現実やイメージのすべてがあり、……」という語り方をするんだとしたら、当然、その一つを切り取ったら、それがどれだけ大ゲサなことを言っているにしろ、その規模さえ飲み込んでしまったら、それを理解するのはやさしくなる。
だけど、それを次の箇所では全否定して澄ましているのがラカンなのだ。
(『さよなら、ニッポン ニッポンの小説2』を読んだ影響がわかりやすいほど出ている。そんなつもりはなかったのに。どうしたものか……)


 漢字の構造が六書の法によって説明されるとしても、文字の成立が六書的な段階を経て、徐々に行なわれたのではない。原理的には、ことばの全体が同時的にその表記の方法をうるのでなければ、文字の体系は成立しないのである。……
(『文字逍遥』、269-270ページ)

これは、ラカン(の一部)が言ってることと、同じだと思った。前に(自分の文脈に合うように都合良く)引いてきた、「この次元は少しずつ構成されるのではありません。いったん象徴が到来すると、そこには一つの象徴の宇宙があるのです。」というのと、全く同じようになっている。
たしかに、「上」という概念が作られてから、「下」という概念が次の日に作られる、というのはおかしい。でも、あの千を超える漢字というもの全体が、一挙に人に与えられるという光景は、どうしても信じられない。でも白川静はそう言う。
(「原理的には」っていうところを見逃してた。どういうことだろう)
その「一挙に」っていうのは、今の人間が時間を把握するために使っている「時系列」というものとは、違うのかもしれない。っていうか、無意識のうちに、「ある一人の人間に」それが与えられるところを想像しちゃったけど、本当は、何万人という、過去の中国の国民全員に一挙におとずれたのかもしれない。
そんなことは、白川静が自明のものとしている、神が誰の心にも普通に住んでいるような世界でしか、ありえないように思える。

高橋源一郎『「悪」と戦う』『さよなら、ニッポン ニッポンの小説2』を買う

ざいせい状況が悪いなか、4000円分の本を買う。『ニッポンの小説 百年の孤独』は、買ってないけど図書館で借りて何度も読んだ。
高橋源一郎の小説で読み通したのはまだない。『さようなら、ギャングたち』はなぜか終わり20ページくらい残して読みかけ。とっても面白かった。

九日目

磯崎憲一郎『赤の他人の瓜二つ』(『群像』2011年1月号)
磯崎憲一郎の文章の特徴の一つに、昔のことを語るのにあまりに現在の言葉を使いすぎる、というのがある。
話者が三人称であってもその時代、人物に寄るのか、それともそれを現在から語るのか、というのとはちょっと違う、単に単語の次元で、その時代のことを語るのにふさわしくないような言葉を使う。
「三人称であってもその時代、人物に寄るのか、それとも現在から語るのか」というのを定めたときには、ものすごく描写が安定する。それを交互、交互にしたところで、その両者がどっちも安定してるんだから安定している。そのどちらも安定しない、もしくはいろいろなレベルが錯綜して、なにかが失われるとしたら、その失われるものとは何か。

 初めてイサベル女王と会ったとき、コロンブスが驚いたのはその余りの平凡さだった。……(33ページ)

昔の人が、女王を平凡だと心から感じられるものなのか? フロイトの「トーテムとタブー」によると、「金枝篇」によると、王というのは「タブー」という、実体化されたエネルギーのようなものを持っていて、村人がなにかを拾う。第三者が「それは王の持ち物だったものだ」と知らせる。するとその物を拾った村人は、さも感電したようにショック死してしまう。そういうものを帯びていた。
それはほとんど未開の文明の話で、この磯崎憲一郎の『赤の他人の瓜二つ』の少なくともこの箇所はコロンブスが生きてた中世(?)の話なので、ぜんぜん違うかもしれないけど、それにしたって、これほど「平凡」だと、この時代に思えるものなのか? その土地が激しく零落していたとしても。
そういうものだったのかもしれないけど、もしそうでないとしたら、ここは、この「平凡」の感覚は、現代からこの小説のこの部分の史実っぽくなっているところに繰り込まれた感覚なのではないか?
なんだか、一番不確かなところを引いてきちゃったけど、そのことがわかりやすく出ているところも、たくさんある。

八日目

先回、自分が、ラカンのいう「主体」について、

まず個人、人自体、みたいなもので、しかしそれが「人間が一つの身体の中に閉じ込められているなどということはまったく奇異なことです。」と言わざるをえない広がりを持った、個人、のこと。

って書いたけど、これは正面から間違いだったらしい。
まず今まで繰り返し取り上げた保坂和志の『小説、世界の奏でる音楽』(『新潮』で五年間連載されていた「小説をめぐって」という評論を三巻にまとめた最終巻)に引用されている中に、こんなところがある。

「私が皆さんに教えていることは、フロイトが人間の中に主体の重みと軸を発見した、ということです。この主体は、個人の経験の総和としての、さらには個人の発達の方向ですらある個人の組織を越えています。私は主体について可能な一つの定義を示したいと思います。つまり主体とは、経験の全体を被い、経験に命を吹き込み、意味を与えることになる、象徴の組織化された体系である、と定式化することができます。」(66ページ)

個人の範囲をぜんぜん超えているらしい。っていうか、一時的にしろ、「つまり主体とは、経験の全体を被い、経験に命を吹き込み、意味を与えることになる、象徴の組織化された体系である、と定式化することができます。」と定式化出来るらしい。
「象徴の体系」って、カンでいうけど、つまり誰にとっても同じものじゃないかと思う。
「総理なんて、誰がなっても同じだから」というのは全く文脈を欠いたただの連想だけど、その宇宙と同等の「象徴の体系」に、誰が入り込んでも同じなんじゃないのという感じがする。
そうすると、個人がいかにも自分のことを個人だと思っている感じ、それが「自我」で、フロイトラカンの言うことを聞くと、それを否定するか、もしくはそれより大きな何かのことを考えざるをえなくなるのではないか、ということになる?



(なにかまとめようとすると、本当に日記が進まないので、すごいブツぎれになるのを許して下さい)
「主体の軸となる現実は……」の中の、青木淳悟の「いい子は家で」について触れてる部分で、「私(保坂和志)はどうしても、父親が巨大化するところにこだわってしまう」といって、「父親が前振れなく巨大化する」といっているけど、前振れならちょっとだけあった、という、まあ重箱の隅をつつくようなことだけど、そんなところ。

 彼は思わず一本口にくわえ、隠れ煙草用のライターで火をつけた。足元にぷっと煙を吐いて全身にまとうようにした。ズボンの裾から煙を通し、ポケットの中へ煙を吹き込み、それから魔方陣でも描くように煙の筋で腰の周囲に三角形を引き、思いつきでそこに逆三角形を重ねたら星のマークになった。その星を大きな円で囲み、さらに二重、三重に囲んでいたところで模様はかき消えた。(66〜67ページ)

これが予兆になって、父親が巨大化した、といえば、この小説を読んでない人なら納得がいくかもしれない。でもだいいち、この動作自体が何の前振れ(というかそういう行為が許容される文脈)もなくはじまったもので、しかも仮にここと父親の巨大化が関係があったとして、その流れこそが「ファンタジー」だから、そこがこの小説にそぐわない、と保坂和志が言っていて、そしたらここを取り上げても別になんにもならない。
これは何にもならないとして、「巨大化」のはじまる部分から、それが空中分解するように終わる部分を何度か読んだけど、っていうかどこを読んでも同じだけど、一文一文の立場のあやうさ、いったいどんな文脈を持っているのかわからなさ(というか突然なんの関係もない文脈が舞いこんでくる感じ)、というのを感じて途方に暮れるしかない。
この場面で、父親は巨大化するが、それによって体の皮膚は薄くなり(肌着ははじけとんだ)、内臓が見える。
「タバコは体に悪い」→「肺が黒くなっている映像」という連想(の短絡)もここにからまっている。
で、この連想のことを考えると、ラカンが『自我』の下巻でいってる、「丁半の読み合い」のゲームのこととか、機械というものが、人間をイメージするのに必須だといったこととかを思い出す。
ゲームとか機械とか、そういうものによって人間をイメージすることが、今や必須になった。それと、テクノロジーによる視覚がさも肉体の視覚と同じように扱われているいくつかの青木淳悟独特の描写と、かぶったのかもしれない。
そんな風に関連が名指しできるような連想は、たいしたことはない。

そらもよう

青空文庫ではなんかサイトの知らせを「そらもよう」というらしいけど、その「そらもよう」でたぶんはじめて自分の作業が取り上げられた。
そらもよう
ここでいってる永井荷風の「ぼく東綺譚」というやつは、僕が入力したものです。
永井荷風は去年から著作権が切れていた(しかも作業自体はその前(前?)年からはじめられる)にもかかわらず、永井荷風の代表作といってさしつかえない「ぼく東綺譚」が、塩づけになってるって、おかしくね? と思って作業に踏み切った。
あれも相当、指が死ぬかと思ったけど、ついに公開か……。みんな読んで下さい。
ここで「ぼく」をひらがなに開いている理由は、リンク先に詳しいです。