十日目

ようやく、本来の目標だった「十日間」までたどりついた。「今まで読んだ本の再読」のつもりが、いつの間にか「今読んでいる本」に変わってしまった。でも「昔どんなことを考えていたか」をさぐるのは限界があるし、結局は今考えていることが反映されざるをえない。
ブランクもたくさん挟んでしまった。
佐々木中『夜戦と永遠』白川静『文字逍遥』
今日ようやく、図書館で長いこと予約していた、佐々木中の『夜戦と永遠』が届いた。東京ではだいたい区ごとに本のゆうずうが効くようになってて、同じ区なら別の図書館の所蔵している本でも最寄りの図書館に届けてくれたりする。逆に違う区になると、そもそも貸し出しのシステム自体が違ったりして、取り寄せてもらったりするのは手間がかかる。半分くらいの区では「隣接する区に在住/勤務していればカードが作れる」あるいはもっと気前良く「東京在住であれば誰でも作れる」というところまである。なので他の区にある本が欲しくなったら、そこまで行って借りることになる。
とにかく東京では本は区ごとでゆうずうが効くようになっている。わが区には、『夜戦と永遠』は一冊しかなかった。
この一冊は二年前に刊行されたもの、にも関らず、わが区では今だに予約待ちが続いている。これはたぶん、小説でもない小難しい本だと思えば、相当人気のある方だと思う。
自分も含めてその人たちはみんな、自分の金は使わず、この本の内容を頭におさめようとしている。保坂和志はこの本について、「映画を二、三回見るだけの金だと考えれば、そんなことよりぜんぜん得るものがある」といつもの言い方で(『ミシェル・レリス日記』と同じ言い方)、6000円の安さをいっていたけど、自分には、今は本当にお金が無いので……。でもいつかは、この一冊を買いたいと思う。だいいち、『切りとれ、あの祈る手を』に関しては、「これをあと何冊も買いたい」という変な気持ちまで起ったくらいだった。その何冊か分で、ちょうど『夜戦と永遠』が買えるんだから、ちょうどいい。
とにかく『夜戦と永遠』が届いた。三週間したらまた返して、自分の番が回ってくるのを待たないといけない。それがもどかしくなったら、買うことになるでしょう。
はじめに、筆者は本当は書きたくなかった(なぜなら「序」を書くということは、いささかなりともこの本全体を俯瞰することになり、書いているときに生成されつつあるものに目が向かなくなってしまうから)「序」の中で、ラカンと、フーコーと、ルジャンドルが、その対立していた当の舞台とは別の場所で、「共鳴」し「唱和」している、と書いてあった。なにこの符合?
その射程は現在まで続いていて、というかそれが「永遠」に続くたぐいのものらしい。ワクワク。
ところで、ラカンの「大文字の他者=女性の享楽」というのを、軽くでも把握していないどころか、それに該当する箇所(セミネールの)を読んですらいないけど、そんな状態で『夜戦と永遠』を読み進めて、いいものでしょうか。今も『自我』はうちにあるけど、それを復習してからの方が。でもそうしているうちに、たぶん三週間過ぎてしまう。だいいち『切りとれ、あの祈る手を』を読んだときにも、コーランをさらったわけでもないし。でもそれとは話が違う気もする。とにかく読んでみよう。少なくとも「セミネール」でいっている「主体」の「正体が知りたい」。いや、本当は知りたいわけじゃない。知りたいといったら、「解釈学的な罠」にはまってしまう、らしい。「主体」という言葉を使ううちに、その使い方がグネグネ動いていくものだとしたら、そのグネグネを楽しみたいという、そういうことをいちいち言うのはハンザツだから、「正体を知りたい」と、いってしまった。それよりも、

……つまり、ラカンを読む者が、読むことを通じて自らを欲望の主体として発見することになるように、彼は自らの発言と文章を設えたのだ。読むことが、知見の単なる移動に終わってはならない。ひとつの苦難であり、困難であり、試練であり、鍛練であり、欲望の劇場でなくてはならない。霞む目を凝らしテクストを読みあてどもなく切れ切れに続く理路を追いノートを取り概念の輪郭を追おうとする作業が、ある惑乱のなかで欲望をそそり続けることになるように。そしてその欲望こそが読む者をラカン的な主体に成形するものであるように。そう、彼はそのことをこそ望んだのだ。ラカンの難解さは、ラカン的主体を生産するためにある。難解さに挑戦し、それをなんとか読みこなすこと、そしてその概念を操ってみせること。その長い課程の最中で、少しずつ考えばかりではなく挙措すらをも曲げ撓められていくこと。これが、ラカン的なる主体を作り出す製造過程なのだ。
(『夜戦と永遠』、23-24ページ)

という、まあ本文がはじまってすぐのところだけど、これが気になってしょうがない。ええ? ラカンの「セミネール」を読んでたら、いつの間にか「ラカン的な主体」にされちゃうの? というか、もうすでにたった一冊だけど、『自我(上)』は読み終えちゃったから、もう「ラカン的な主体」にされちゃってるの?
冗談は、というか半分の冗談はさておき、自分はよく評論とかで見かけるような、急に日常語からモードが変わって「ラカン語」を使いはじめる人とか、もっというと(実際にここまでのレベルになっている人がいた)、なにを喋っていても「ラカン語」を使わずにはいられないような人とか、を見てきたけど、そういう人間にだけはなるまいと思っていた。だって、何言ってるか全然わからないし。後者の実際にネットで見掛けた人に関しては、あきらかに、その他の人に言ってることが通じていないというのがわかっていて、その通じないことを言っていることに酔っているようにしか見えなかった。そして、「自分の言っていることが正しいオーラ」が、発散され続けていた。そんな人間にだけはなりたくない、自分だけはラカンを読んでいても「ラカン語」をペラペラと喋り出すような人間には、……。
でも(そう言われてはじめて、さっき言った「ラカン語」を喋りだす人がなんであんなに出現するのかわかったけど)佐々木中に言わせると、ラカンの難しさ、結局何言ってるのかわからなさが「機能」して、「ラカン的主体」を生み出すようになっているらしい。
でも、なりたくない人ですけど。読めば、狂うしかないんでしょうか。教えて下さい、佐々木中先生。
まだたった七ページしか読んでないけど、以上のようなことを考えた。あと600ページ強余ってる。


 だから、ラカンの概念をとりあげてそれは結局のところ一体何なのかと問い詰めていくことはさして意味はない。わかろう、わかりたいと思うことは無駄なのだ。はじめからわからないように設えられわからないことによって機能する概念のまわりで右往左往すること、それは無益なばかりではなく滑稽ですらある。わかろうと思うから、わかりたいと思うから、わからない時に怨恨を抱かなくてはならなくなる。そしてわかったときにそれを説いて回りたくなるのだ。そうした茶番をわれわれはもう長く見過ぎた。……
(『夜戦と永遠』、24ページ)

なるほど! さっそく自分がこれまで抱いてきた、第一の疑問が、本文はじまってからまだ十ページも過ぎないうちに、解決された。つまり、前に自分が挙げたような人々は、「そしてわかった時にそれを説いて回りたくなる」人々だったわけで、ラカンを読んでも、そうならないための方法が、あるわけですね。
それで、その方法とは……(自分は、こうして、ある意味でガンコに、必要以上にフランクな言葉遣いをすることによって、そうならないのではないかと思っているらしい。でも、そんな「ラカンの入門書」やら「ラカン批判」もあったのを覚えている。それらはもしかすると、いやきっと、自分と同じように、「そんな語り方をはじめたくはない」と思っているのかもしれない。それらは「要するに、……」という言葉を使うに違いない。自分はそれも「どうなんだろう……」と思う。それらには、「ラカンは征服してやった!」という気配が感じられる気がする)。


……あたかも、彼の蛇行する理路のなかでは、言語のなかに実は現実やイメージのすべてがあり、イメージのなかにも現実と言語のすべてがあり、現実のなかにもイメージと言語のすべてがあり、そしてそれらのすべてが何かさまざまな場所に散りばめられた穴のまわりを回遊していくかのようだ。……
(『夜戦と永遠』、26ページ)

なるほど! だから、自分が前の日記に書いているようなことが書けて、しかもそれについて、なんとなくでもわかったような気になれていたわけか。
自分は意図的に、「セミネール」のほんの一部だけをしつこく引用して(あるいは都合良く引っ張ってきて)、その言葉通りに、考えてきた。そしたら、おぼろげながらも、「象徴」とか「主体」とかについて、わかったような気になってきた。わかってきたような気になりつつ、「あらゆる人々を悩ませてるラカンが、一部を切り取ったにしろ、だんだんはっきりとしたものに見えつつあるのは、どっかおかしいんじゃないか」とも思えていた。その感じこそ正解だったらしい。
「言語のなかに実は現実やイメージのすべてがあり、……」という語り方をするんだとしたら、当然、その一つを切り取ったら、それがどれだけ大ゲサなことを言っているにしろ、その規模さえ飲み込んでしまったら、それを理解するのはやさしくなる。
だけど、それを次の箇所では全否定して澄ましているのがラカンなのだ。
(『さよなら、ニッポン ニッポンの小説2』を読んだ影響がわかりやすいほど出ている。そんなつもりはなかったのに。どうしたものか……)


 漢字の構造が六書の法によって説明されるとしても、文字の成立が六書的な段階を経て、徐々に行なわれたのではない。原理的には、ことばの全体が同時的にその表記の方法をうるのでなければ、文字の体系は成立しないのである。……
(『文字逍遥』、269-270ページ)

これは、ラカン(の一部)が言ってることと、同じだと思った。前に(自分の文脈に合うように都合良く)引いてきた、「この次元は少しずつ構成されるのではありません。いったん象徴が到来すると、そこには一つの象徴の宇宙があるのです。」というのと、全く同じようになっている。
たしかに、「上」という概念が作られてから、「下」という概念が次の日に作られる、というのはおかしい。でも、あの千を超える漢字というもの全体が、一挙に人に与えられるという光景は、どうしても信じられない。でも白川静はそう言う。
(「原理的には」っていうところを見逃してた。どういうことだろう)
その「一挙に」っていうのは、今の人間が時間を把握するために使っている「時系列」というものとは、違うのかもしれない。っていうか、無意識のうちに、「ある一人の人間に」それが与えられるところを想像しちゃったけど、本当は、何万人という、過去の中国の国民全員に一挙におとずれたのかもしれない。
そんなことは、白川静が自明のものとしている、神が誰の心にも普通に住んでいるような世界でしか、ありえないように思える。