フーコー『言葉と物』

ほんのちょっとしか読んでないけどなぜフーコーの『狂気の歴史』を念入りに読みながら白川静が「狂字論」を書いたのか、なぜひ孫引きで小島信夫が『美濃』で突然例の「中国の動物の分類」を引用しはじめたのか、わかった。わかったわけではない。
佐々木中が「フーコーは時代の連続性ではなく非連続性ばかり見てきた」というのはまだ「序」しか読んでないけど正しいらしい。それと関わることで「……観念やテーマのレベルでのこうした擬=連続性は、おそらくすべて表層的現象にすぎまい」というのは、白川静が字書を完成させた際それにイチャモンを付けた何とか言う漢字学者の説、「漢字の漫画的解釈」がいかに間違っているか、をイメージするとわかりやすい。
どこまで辿ってもいったい何から発生したのかわからない考えの塊があって、それ以前と以後は違う言葉で喋ってるようなものだから、「中里君、今さとみちゃんは呉三郎にフられて深い悲しみの淵に沈んでるの。一瞬であるが故にまた永遠でもあるような深淵に。男の子にはわからないの、気安く話しかけないでくれる!?」みたいなことを、いわば昔の文献がわれわれに言ってくる。なまじ言葉が通じるからって、わかったようなこと、言わないでくれる!?