すいません

毎日更新か、わるくても隔日の更新にしようと思っていたこのブログですが、にわかに他のことにハマりだして、ちょっと集中出来ないような状況になってしまいました。仮にここの更新を期待している人がいたとすれば、申し訳ないです。
ただ、磯崎憲一郎の「眼と太陽」、をちょっとずつ読み進めたりしてます。

他人の空似

今度こそ毎日更新は無理です。これだけ読書の密度を維持したのは久しくなくて、もうだめです。
というよりも、書くために読む、をずっとやってると、なにかどんどん硬直しそうで、全く新しい風が横から吹いてくる、ということが起きなくなります。
読んでるところも、何日間も、同じところをグルグルしているような、変な感じになり、どうにかなりそうです。
そして、毎回毎回、思ったことをあらいざらい書きつけるので、次があるのか、ぜんぜんわからなくなります。
今日はすでにどっちも単行本で持っているものの、新しく文庫化されたので河出文庫の「肝心の子供/眼と太陽」(磯崎憲一郎)を買いました。肝心の子供も眼と太陽も、二十冊くらい積んである本の一番下にあるため、取り出しにくいので、ちょうど良かったです。一月に「群像」に載った「赤の他人の瓜二つ」はまだ読めてないです。
巻末にある保坂和志との対談は、すでに読んだはずなのですが、保坂和志の「受賞作以前に、僕は磯崎さんが書いた小説と小説のようなエッセイ、合わせて四本を読んでいて、この人は書けるんじゃないかとは思ったんです。ただ、この二年間は書いているという話を聞かなかったので、もう書いていないのかなって思っていたら、これを書いていたんだ(笑)。」という発言は忘れていて、この「赤の他人の瓜二つ」という長めの長篇を出したのも、前ぶれのなかったことだし、そういうことばっかりする人なんだと思いました。
これも企画のサイクルに入れないとウソになるくらい、この二作は読みました。



日々のユニークユーザー数が、10人を上下しています。この企画(年齢が一つ変ったので、どうしても年月の経つのを意識せざるをえなくなり焦ったすえに今まで読んできた本を読み返そうのコーナー)がはじまってちょっとしたときに、アクセス解析をつけました。ここを見ている人は毎日10人はいるということです。
そして、新規ユーザーは10%だから、そのうち約9人が、たぶんここを毎日開くことにしているんだと思います。
といっても、まだ三、四日分しかアクセス解析してないので、これからどうなるかわからないですが。
その人達はタイパーなのでしょうか。タイパーが、興味もないのに「あのPが書いてるから」といって、毎日開いてくれるのでしょうか。
そして最近は難しいことばっかり書いてると思って、すぐに閉じるのでしょうか。
そうだとしたら、そういう人はこれからしばらくの間は開かないでいただけるとありがたいです。私は本当に読んでくれてる人の人数が知りたいです。それでもずっと義理で開くような人は、なにか全部読んだということがわかるような、内容に絶対に関係のあるコメントを下さい。それができないということは、読んでないということなので、開く必要もないと私は考えます(「この記事に対してコメントがほしい」というわけではなく、むしろ全くほしくはなく、他の記事について言っています)。
なぜか理由もないのに追いつめられています。これは別に日記自体に原因があるというわけでもなさそうですが、とにかくここにおいては、最近書いてるのが果して誰か読めるものなのか、どんな風に読まれてるものなのか、すごい気になりはじめました。この企画をはじめるまでは、なんというか、ただのらくら書いていただけなので、どうでも良かったのですが、にわかに自分の芯の部分を書きはじめたので、そんな気分になります。
はたして、読んでる人は、ラカンをなぜ読まないといけないのか、一から言わなきゃいけない人なのか、そうじゃないのか? 私自身からラカンがどんな人なのか、説明しないといけないのか?
これを見てすぐにページを閉じるような人は、いったい何にはじかれてそうするのか?
保坂和志」のワードで来た人も、何人かいるようです。そういう人にとってはどうなのか? ぜんぶ気になります。

七日目

六日目の最初から書き直し)
「主体の軸となる現実は……」という章のラカンの抜き書きは、青木淳悟の『いい子は家で』(と柴崎友香の『主題歌』)を読むためのものだった。
しかし、ラカン精神分析のことを振っておきながら、またこの『いい子は家で』の中には、変形した父親とか視線を働かせる母親とか、そういう「分析の素材」じみたものがたくさん含まれているにもかかわらず、読んで、それについて言っていることの中に、分析じみた言葉は一個も入ってない。
ところで、また前に言ったようなことに戻るけど、また『自我』の中に「精神分析は教育学とは違う」というようなことを言っている箇所を見つけた。

……なぜなら個人的経験を統合しているのは歴史的テクストの水準だからです。それゆえ症状は、この中心からずれた水準での介入にしか反応しません。個人の正常な発達という考え方によって捏造された出来合いの理論に基づく介入や、個人の正常化を目指すような介入は、すべて坐礁してしまうでしょう。たとえば、これこそ主体に欠けていたものだ、これこそ葛藤に耐えるにあたって学ばねばならないことだ、などという介入です。問題は、症状はどちらの次元で解決されるのかということです。その中間でということはありません。

「これこそ主体に欠けていたものだ」、「これこそ葛藤に耐えるにあたって学ばねばならないことだ」、などということは、どこか、はじめて精神分析に触れる人が、まずその解決を期待してかかることのように思える。「私の葛藤が解消されてほしい」みたいな。
そういう流れになることを「無意識のうちに」(?)大多数の人が期待してしまうから、それに対してクギを刺しているように思える。
それと、全く関係ないことかもしれないけど、哲学に時間が含まれるのか? という問題も思い出す。
(たしか保坂和志の書いた中にあったけど見つからない。友人K(樫村晴香【男性】、哲学者)に、「哲学は時間を扱えない」と指摘されたといって、それで保坂和志が「私はそんなことも知らなかった」とか何とか、いったところがあった。ここまで詳しく覚えてるということは、どっかにあったはず)
教育には時間が関わってくる。時間に関わることは、人は大ざっぱにしか語れない。もしくは時間に飲まれながら語るしかない。
「教育」うんぬんに関わるのは下線の部分だけど、太字にした「個人的経験を統合しているのは歴史的テクストの水準」というところは、別の意味で気になる。この段落の(個人的な)焦点になっている。
この手前の、段落がはじまるところから引用するとこうなる。

 あるパロールは主体の無視された部分の鋳型です。これこそが分析でいう症状の固有の水準です。この水準は個人的経験に対して中心を外れています。なぜなら個人的経験を統合しているのは歴史的テクストの水準だからです。……

パロール」というのは、「ランガージュ」とか「ディスクール」とかと重なってたり使い分けられたりする、言葉みたいな意味。
「ランガージュ」はだいたい「ランゲージ」と同じだからきっと言語全体みたいなことで、「ディスクール」は書き言葉に使われたり、「パロール」は喋り言葉に使われたりするけど、要するに全て言葉ということ。でもこれらの単語を使う人の中で、こんなに乱暴に分類する人はいないかもしれない。
とにかくその中の「パロール」で、ここでは分析に使う患者の言葉、ということになるかもしれない。
それが、「主体の無視された部分の鋳型」らしい。
「主体」というのは、ラカンもそれを引用した保坂和志もそれがなんなのかわからないというほどのことなので、軽々しいことは言えないけど、まず個人、人自体、みたいなもので、しかしそれが「人間が一つの身体の中に閉じ込められているなどということはまったく奇異なことです。」と言わざるをえない広がりを持った、個人、のこと。
なんで「個人」と打ったあとに「、」を打ちまくるかというと、そういうとらえ方をしていいものかわからないからです。
とにかく主体とは「広がり」を持っているもの。でもそこにいる人、といってもいいもの、それでどんな広がりを持っているのかといえば、「象徴」が宇宙であるようなところに在籍している、人のようなもの。
全くラカンの言葉の汚いつぎはぎのようになっていて、これが理解といえるのかどうか、おそらくいえないけど、これくらい言いよどむしかなく、またこれ以上言いよどむと言いよどみたいがために言いよどむことになるのでこの辺にしておく。
「の無視された部分の鋳型」に移る。
「無視された」というのは、たぶん「無意識」が「意識」に、ということでいいのかな。
だから「あるパロールは主体の無視された部分の鋳型です。」というのは、患者が喋ることから、それが言ってない領域がどんな形をしているのか、おぼろげながらわかる、ということになる(「患者」といったけど、具体的な治療の場面は想定していないか、もしくはそういう場面に限定してこの言葉を考えない方がよくて、人間の喋る活動全体、をイメージした方がいいかもしれない)。
それで?
こことか、他のところでも繰り返し使われる「水準」という言葉を、なんか、自分が今まで使っていた「水準」という言葉と同じようにイメージしていいものか、わからない。単に別の言葉に置き換えたら、「レベル」とかになるかもしれないけど、とにかく水準でもレベルでもわからない。
「レベル」を文字通りにしたら、人間は層になってることになる。それでいいのか? って気がする。
「主体の無視された鋳型」こそが「分析でいう症状の固有の『水準』」で、その『水準』が、「個人的経験に対して中心を外れています。」「なぜなら個人的経験を統合しているのは歴史的テクストの水準だからです。」
……
こんな風な関係で、「歴史的テクスト」という単語にありつくけど、この「歴史的テクスト」っていうのは、歴史の教料書、みたいなバカなことじゃなくて、勉強の「歴史」とは関係がなくて、個人史、とそれをはあくする自分、というようなこと? だと思った。
だとすると、自分は生まれてきて、こういう風に育って(それを完全に忘れてたとしても)、そしてこうなった、と思い込んでる部分、とは別のところが、人間の本体、みたいなものになっていて、それが人間を本当は動かしてる、ということでいいのかな?

青木淳悟

次は青木淳悟に移る予定。ぜんぜん進まないし取りかかりようがなく、それについて書くのも「支離滅裂」になるしかない気がする。
先月の青空文庫のファイルのダウンロード数のランキングが発表された。自分が作業を担当したのは以下の通り。


(順位)(題名)    (作家)      (ダウンロード数)
89    審判     フランツ・カフカ   1000
248   病牀六尺   正岡子規       428
323   俳人蕪村   正岡子規       334
343   面とペルソナ 和辻哲郎       324
384   土下座    和辻哲郎       306
414         和辻哲郎       292
474         アントン・チェーホフ 266
499   露伴先生の思い出和辻哲郎       256


チェーホフの評価の低さがいつも気になる。

六日目

三日目四日目を受けて)ところで、この保坂和志の『小説、世界の奏でる音楽』の中の「主体の軸となる現実は……」という章の最初の、大量のラカンの抜き書きも、青木淳悟の小説を読むために引いたものらしい。
保坂和志という小説家の最近の(2004年から2008年まで続いた)連載評論、というのか何なのか小説論、の中の青木淳悟という作家について書いてあるところを読んでいます。
僕はこの「小説論」三巻分を、全部通して四、五回分は読んでいて、どこを開いても「ここか」ってわかるほどになっているけど、この「小説論」についてなにかいうには、というかここに書かれているようなことについて、いまいち信じられないような人とか、「なに言ってるのかわからない」って直帰するような人に対して、どんな風にいえばいいのか、この「◯日目」がはじまってからずっと頭をひねってるけど、どうもその道筋が見えてこない。
だって最終的には、現在の科学を根底から支えている「因果律」を否定しないといけない。この人の一番極端な考えの一つに、そういうところがある。そんで、普通の人は因果律を全くないものと見なしたり、それより重要な原理が世界を動かしてるとか、オカルトを抜きにして考えたりはできない。
この人は小説家だから、そういう小説を書くために、小説の中だけでその理論を働かせる、というわけでは全くなく、こういったことを本気で言っている。
その辺のことがわかる(かもしれない)やりとりを引いてみる。これは、保坂和志と高校の時に同級生だった人で、今は思想家になっている樫村晴香という人との対談(エッセイ集『アウトブリード』内)。全体としては自閉症という現象について、ほぼ樫村晴香が語っていて、ほんの少し、チャチャを入れるように保坂和志の意見が挟まれる。その一節。

(かつてあった空間を再現する、という主旨の小説について)
保坂 ただ僕は、そういうことを小説に書きたい訳じゃないんだよね。そうではないことを書きたいんだよね。でもそう思ってんだよね。でもそうではないんだけど、どこから調べていってもそうではないんだけど、どこか一点突破できる所はないのかって考えてるんだよね。合理的知識ってのは僕にとって身体の延長じゃなくて、外から勝手に「決めごと」としてやってくるものだから、変えてもかまわないわけでしょ。進化論が突然変わって、人は猿からできたんじゃなくてトカゲからできたんだよ、って言われても、「ああ、そうですか」って。
樫村 ……。
保坂 書き換えてかまわないものを盾にとって、みんなアレコレ言ってるわけだから、全く違う方法とかがあれば、そこから突破できるんじゃないかと思ってるんだよ。知識は容易に取り替え可能だから、その一つで、何か突破できるんじゃないかと思ってるわけ。消えた時間を空間的に配置し直すこととかは無理、って理由がいくつもあるわけでしょ。
樫村 理由ではなく原理で、それは現実の構造だから、どれか一つが勝手に変えられると、その瞬間太陽も地球も吹き飛んでしまう。原理など法律と同じだと思ってるんでしょ。(笑)
保坂 「だって確かめてないもん」っていう感じなんだよね。
樫村 言語野的認識でなく、あなたの身体的暗黙知の水準では。
保坂 だってみんな確かめてるわけじゃないじゃん。仮説を当てはめてるわけでしょ。
樫村 私があなたの前に今いることも仮説です。(笑)
保坂 いるということはよくわかるんだ。それは、いることはいるんだろうけど。
樫村 哲学は一つのことが疑えるなら、全てが疑えるだろう、と考える。疑えることと疑えないことを、手が届くかどうかを基準には分離しない。(笑)

手が届くかどうかで考えるのが小説家なんだ、と保坂和志なら言いそうだと思う。
科学の力があらゆる人の身にしみている現在、こんなユルい考え方をできる人はそうそういないし、それを黙って聞き流すことのできる人すら、ほとんどいない(内心さげすみながら聞くことのできる人ならいるかもしれない)。
「人は猿からできたんじゃなくてトカゲからできたんだよ」って言われた時に、誰もが「それはちがう」ととっさに言い返すけど、それは何によるのか。
科学が本当に正しいことと、「とっさに言い返す」ことは違う。違うというのは「正しくない」といいたいわけではなく、その正しさと「とっさに言い返す」人の語勢は全く関係がない。
そんな風なことについて書いてあるこの人のエッセイがあるけど、それも引用してくるのは気がひける。とにかくこの人は科学についてこういうスタンスを取っている。
それはともかく、この対談は、「ただ僕は、そういうことを小説に……」っていうところの言いよどみ方とか、高校からの友人同士がこんな深いことを話し合ってるということとか、しかもそれがこんな根本から食い違っていることとか、なにかいろいろなことが詰まっている。

五日目

ジャック・ラカンフロイト理論と精神分析技法における自我』
きのう触れたラカンのところでいった、「精神分析は教育とは違う」ということをはっきりといっている箇所を見付けた。(この「◯日目」という記事は、「誕生日の節目がおとずれたから今まで読んだ本を振り返ろうのコーナー」の記事で、今まで読んだ本の再読の記録です。
本来は十日分だけにするはずでしたが、この調子だと、何日分に延びるかわかりません)

 活動することにはそれ固有の一種の快がある、例えば遊ぶ快のようなものがあるという考え方、こういう考え方をするのは我々の思考の様々なカテゴリーをドブに捨てるようなものです。そんなふうに考えたら我々の技法はどういうものになってしまうでしょう。たんに人に体操でも音楽でも何でもお望みのものを教えるのと同じことになってしまいます。教育学的な方法というものは分析経験とは全く無縁の領域に属します。だからといって教育学的方法は価値がないとか、わが共和国において重要な役割を演じさせることができないというわけではありません。それについてはプラトンを引き合いに出せば十分でしょう。
 人間を自然で幸福な機能状態に戻すこと、人間をその発達段階に戻すこと、人間を時とともに熟す生体の自由な開花に導くこと、そして遊びの時、次いで適応の時や安定化の時など様々な段階に適切な時を与えること、新しい生命の誕生を迎えること、そうしたことを望むこともできるでしょう。さらに、ひとつの人間学全体がそういったことの周りに構築されるということもありうるかもしれません。しかしそうした人間学が、精神分析、つまりたわごとを話させるために人々を寝椅子に寝かすことを、正当化してくれるでしょうか。……

これはフロイトの後期の重要な概念である「快感原則」について理解するための補足のようなものだけど、ラカンはことあるごとに、精神分析が何か、人格の向上とか、人間の成熟とかいったことを目指すものではないということを強調する。
たしかに、普通の人が人間の内面を語る時に、どうしてもそういう、「向上」とか「進歩」とかいう方に寄った語り方をしてしまうクセがあると思う。それが単に個人から個人への言葉であったら非常に心地が良く、誰が聞いても納得できるように響くが、それで逆に失うものもある。
「人間って、本当に前進し続けるものなの?」ということが、そういう文脈では言えなくなってしまう。
これは高橋悠治(現代音楽家で、この人の発言も保坂和志の「小説論三部作」にたくさん出てくる)の言葉だけど、西洋音楽の歴史は、ひたすら「向上しよう」という衝迫につらぬかれていて、その結果、どうしようもない壁にぶつかって身動きがとれなくなった。そして、「向上しよう」というのとは別のルートを取らざるをえなくなった。
音楽の芯ではそうなったものの、芯からちょっとでも外れると、「まだ向上出来る」という錯覚から抜けきれない。で、高橋悠治はぜひ、そういう衝迫から抜け出そう、という。
さっきから、ラカンでも高橋悠治でも、曲解に曲解を重ねているから、具体的にそう言ったかどうかは、保障できない。ただ全体として、そんな風なことを思わされた。
発展し続けるというのはありえないか、もしくはウソ臭い。



ラカンは、ラカンをよく語る人がいうように、はっきりと図式化されたようなことは、少なくとも「セミネール」の中では、いってない、というか、そういう風に見えてこないような語り方をしてるように見える。
ラカンの概念として最も有名な「現実界」「想像界」「象徴界」というのがあって、それぞれの字を丸でかこって、それを三角形に並べるような説明のされ方があるけど、たとえばこの『自我』を読んでいると、

 言い換えると、すべてが相互に関連し合っています。人間的次元という固有の領域において何が起きているのか、ということを考えるためには、この次元が一つの全体性を構成しているという考え方から出発すべきです。象徴的次元における全体性は宇宙 un univers と呼ばれます。象徴的次元はまずその遍在する universel という特性において与えられます。
 この次元は少しずつ構成されるのではありません。いったん象徴が到来すると、そこには一つの象徴の宇宙があるのです。象徴がいくつぐらいあれば象徴的宇宙が成立するのか、ということを問うこともできるかもしれませんが、この問いは置いておきましょう。しかし象徴の機能それ自体の人間的生への出現を構成する象徴の数がどれほど少ないものであっても、その象徴は人間的なものすべての全体性をすでに含んでいます。すべてはすでに出現した象徴、いったんは現れてしまった象徴との関係において秩序立てられるのです。

こんなところがあって、宇宙にまでなってしまった象徴の世界、「その象徴は人間的なものすべての全体性をすでに含んで」いるような象徴の世界、に均等に対置される「現実界」なんて、少なくともスケールで考えたら想像がつかない。ここでいう「象徴」とは、人間が触れられるもの全てを示しているように見える。
想像界」「象徴界」「現実界」の三つの語られ方は、マルを三つ並べて同じ大きさで描いてあらわすのとは全然違う広がり方をしている。