八日目

先回、自分が、ラカンのいう「主体」について、

まず個人、人自体、みたいなもので、しかしそれが「人間が一つの身体の中に閉じ込められているなどということはまったく奇異なことです。」と言わざるをえない広がりを持った、個人、のこと。

って書いたけど、これは正面から間違いだったらしい。
まず今まで繰り返し取り上げた保坂和志の『小説、世界の奏でる音楽』(『新潮』で五年間連載されていた「小説をめぐって」という評論を三巻にまとめた最終巻)に引用されている中に、こんなところがある。

「私が皆さんに教えていることは、フロイトが人間の中に主体の重みと軸を発見した、ということです。この主体は、個人の経験の総和としての、さらには個人の発達の方向ですらある個人の組織を越えています。私は主体について可能な一つの定義を示したいと思います。つまり主体とは、経験の全体を被い、経験に命を吹き込み、意味を与えることになる、象徴の組織化された体系である、と定式化することができます。」(66ページ)

個人の範囲をぜんぜん超えているらしい。っていうか、一時的にしろ、「つまり主体とは、経験の全体を被い、経験に命を吹き込み、意味を与えることになる、象徴の組織化された体系である、と定式化することができます。」と定式化出来るらしい。
「象徴の体系」って、カンでいうけど、つまり誰にとっても同じものじゃないかと思う。
「総理なんて、誰がなっても同じだから」というのは全く文脈を欠いたただの連想だけど、その宇宙と同等の「象徴の体系」に、誰が入り込んでも同じなんじゃないのという感じがする。
そうすると、個人がいかにも自分のことを個人だと思っている感じ、それが「自我」で、フロイトラカンの言うことを聞くと、それを否定するか、もしくはそれより大きな何かのことを考えざるをえなくなるのではないか、ということになる?



(なにかまとめようとすると、本当に日記が進まないので、すごいブツぎれになるのを許して下さい)
「主体の軸となる現実は……」の中の、青木淳悟の「いい子は家で」について触れてる部分で、「私(保坂和志)はどうしても、父親が巨大化するところにこだわってしまう」といって、「父親が前振れなく巨大化する」といっているけど、前振れならちょっとだけあった、という、まあ重箱の隅をつつくようなことだけど、そんなところ。

 彼は思わず一本口にくわえ、隠れ煙草用のライターで火をつけた。足元にぷっと煙を吐いて全身にまとうようにした。ズボンの裾から煙を通し、ポケットの中へ煙を吹き込み、それから魔方陣でも描くように煙の筋で腰の周囲に三角形を引き、思いつきでそこに逆三角形を重ねたら星のマークになった。その星を大きな円で囲み、さらに二重、三重に囲んでいたところで模様はかき消えた。(66〜67ページ)

これが予兆になって、父親が巨大化した、といえば、この小説を読んでない人なら納得がいくかもしれない。でもだいいち、この動作自体が何の前振れ(というかそういう行為が許容される文脈)もなくはじまったもので、しかも仮にここと父親の巨大化が関係があったとして、その流れこそが「ファンタジー」だから、そこがこの小説にそぐわない、と保坂和志が言っていて、そしたらここを取り上げても別になんにもならない。
これは何にもならないとして、「巨大化」のはじまる部分から、それが空中分解するように終わる部分を何度か読んだけど、っていうかどこを読んでも同じだけど、一文一文の立場のあやうさ、いったいどんな文脈を持っているのかわからなさ(というか突然なんの関係もない文脈が舞いこんでくる感じ)、というのを感じて途方に暮れるしかない。
この場面で、父親は巨大化するが、それによって体の皮膚は薄くなり(肌着ははじけとんだ)、内臓が見える。
「タバコは体に悪い」→「肺が黒くなっている映像」という連想(の短絡)もここにからまっている。
で、この連想のことを考えると、ラカンが『自我』の下巻でいってる、「丁半の読み合い」のゲームのこととか、機械というものが、人間をイメージするのに必須だといったこととかを思い出す。
ゲームとか機械とか、そういうものによって人間をイメージすることが、今や必須になった。それと、テクノロジーによる視覚がさも肉体の視覚と同じように扱われているいくつかの青木淳悟独特の描写と、かぶったのかもしれない。
そんな風に関連が名指しできるような連想は、たいしたことはない。