矢内原伊作『ジャコメッティ』

 彼はすぐ三枚目にとりかかったが、もうまっくらだったので今度は電灯をつけた。「自然の光と電灯の光ではずいぶん違って見えるでしょう」と訊くと、「いや全く同じだ、ただ自然の光でのほうがいっそうよく構造が見える」という答えだった。……(24p)

矢内原伊作がモデルになるという話をもらって)「ポーズする時は動いてはいけないんですか」とぼくは訊ねた。「いけない」とジャコメッティ。「ほんの少しでも?」「そうだ、ほんの少し動いてもいけない。」「話をしても?」「いけない。」「呼吸しても?」「いけない。」ぼくらは笑いだした。彼のためにポーズすることになれているアネット(ジャコメッティの妻)がぼくを安心させるために言う。「大丈夫、少しくらいは動いてもいいのよ、勿論口を動かして話をしてもいいし……」(18p)

矢内原伊作が学校の留学期間が終わって日本に帰る時、ジャコメッティ夫妻とパリにある唯一の日本料理屋に入る。
てんぷらなどを「うまいうまい」と言って食べる。
「日本人はヨーロッパ人になりきることがうまいが、ヨーロッパ人はいつまでも日本人になれない」ということを聞いて、瞬時にさまざまなことを考える。ヤ・ナ・イ・ハ・ラが。

罪と罰

罪と罰とか、モンテ・クリスト伯とか、存在と時間とか、イザベラねとか、また寝ても覚めてもとか、アナレクタ1とか、読んでます。
でも普通のことが書きたくなってきたので、ここはそんな雰囲気がいつの間にかなくなってきたので、新しいブログでも立ちあげて普通のことを書くかもしれません。
20000ページビュー、ありがとうございます。なにかコメント下さい。

フーコー『言葉と物』

ほんのちょっとしか読んでないけどなぜフーコーの『狂気の歴史』を念入りに読みながら白川静が「狂字論」を書いたのか、なぜひ孫引きで小島信夫が『美濃』で突然例の「中国の動物の分類」を引用しはじめたのか、わかった。わかったわけではない。
佐々木中が「フーコーは時代の連続性ではなく非連続性ばかり見てきた」というのはまだ「序」しか読んでないけど正しいらしい。それと関わることで「……観念やテーマのレベルでのこうした擬=連続性は、おそらくすべて表層的現象にすぎまい」というのは、白川静が字書を完成させた際それにイチャモンを付けた何とか言う漢字学者の説、「漢字の漫画的解釈」がいかに間違っているか、をイメージするとわかりやすい。
どこまで辿ってもいったい何から発生したのかわからない考えの塊があって、それ以前と以後は違う言葉で喋ってるようなものだから、「中里君、今さとみちゃんは呉三郎にフられて深い悲しみの淵に沈んでるの。一瞬であるが故にまた永遠でもあるような深淵に。男の子にはわからないの、気安く話しかけないでくれる!?」みたいなことを、いわば昔の文献がわれわれに言ってくる。なまじ言葉が通じるからって、わかったようなこと、言わないでくれる!?

佐々木中『夜戦と永遠』が文庫化!?(2)

……思想書で、副題にある通り「ラカンフーコールジャンドル」の三名について、順番に、ほぼ同量ずつ、語っている。
最終的には、三人の不穏な共鳴によって、「夜戦と永遠の地平」が見えてくる、らしい。まだ「ラカン」の途中までしか読んでなかったから、どれくらい共鳴したか、わからないけど。共鳴というくらいだから、三つが揃ってはじめて、鳴りだすのかもしれない。ラカンだけだと、まだ「ブーン」って。
ラカンだけしか読んでないのは、図書館で借りて読んでたからで、もうかれこれ出版されてから数年経つにも関わらず、図書館では「予約待ち」状態が続き、いったん返すと十人が読み終らない限りまた回ってこない。
6000円の、この巨大な本を今のざいせい事情で買うのは気がひける。
他の誰かがこの区にある三冊を回し読みしている間に、他の本を読んでおこうと思って、放っておいた。そんなある日、2ちゃんねるの「佐々木中」スレを見ていたら、

夜戦と永遠が文庫化されるらしい

という書き込みがあった。さもありなん。あれはあんな出版事情(たぶんそんなに名の売れてない出版社の、しかもあれだけ大がかりな本)だったにも関わらず、かなり売れたらしい。「切りとれ、あの祈る手を」は、東浩紀がちょうど同じ頃に「東浩紀編集長」として「思想地図β」という雑誌を発刊しようともくろんでいたその時に出て、思想書としては例外的な売り上げをはじき出して同じくらい「思想地図β」が売れなければ終わりだ、といって佐々木中のダメなところをツイッターであげつらっていた。さもありなん。思想の良さは、売り上げ部数によって決まるらしい。
それくらい「切りとれ、あの祈る手を」は売れた。自分も買った。
なので、「夜戦と永遠」を文庫化したら、それなりに売れるだろう。自分も出たら買う。だいいち、イソケン(磯崎憲一郎)との対談で、イソケン(磯崎憲一郎)が、「夜戦と永遠、今度文庫化されるんですよね?」といって、ささあた(佐々木中)が「それ、まだ言っちゃダメですよ(笑)」といった、らしい。
こんな対談の情報を出して、「2ちゃんねる」からのデータの信憑性を高めようとしてるけど、この「対談」の情報自体も、「2ちゃんねる」による。でも、さもありなんですよ。出たら買う。

佐々木中『夜戦と永遠』が文庫化!?

どうも、ごぶさたです。一応見ている人がいるようなので、更新してみます。
いつだったかな、ブログをやってて良かったのはいつ何を読みはじめたのか把握できるところで、二月頃に佐々木中の『切りとれ、あの祈る手を』を買って読み出して、それからすぐハマった。大著『夜戦と永遠』から何年かして出版した、口頭筆記のようなものだけどあとで絶対ペンが入っている。「見事」と書かずに「美事」と書いたりするのがそのインタビュアーの裁量で出来るとは思えない。
それとも、それは直接書かれてないが、「それは美事で……あ、この「ミゴト」というのは、美しいに事と書いて下さい、それで……」と喋ったとでもいうのか。そんなはずはない。
インタビュー「が元となって」書かれた、佐々木中の入門書(および今後の展望)。『切りとれ、あの祈る手を』がそれ。
『夜戦と永遠』は、その数年前に突然、何の前触れもなく世に出た、……(つづく)

クラフトワーク


今日は、ポータブル・プレイヤーにクラフトワークの「ツール・ド・フランス」を入れて、それを聞きながら自転車で走った。ふだんなら、「〜〜ながら音楽を聞く」という聞き方を進んですることはなく、シチュエーションによって曲の聞こえ方がそんなに変わるとは思っていないけど、きのうこの「ツール・ド・フランス」を寝る前の、風呂に入ったり洗濯しなきゃいけなかったり、とにかくやることが溜まっているのにパソコンの前を動けない状態の時に聞いていたら、明日は絶対早起きして、あの動いているのが不思議なくらいボロボロに銹びたママチャリに乗って、これを聞きながら川沿いの土手をずーっと走るんだと決めて、そのイメージが頭から離れなかった。じっさい今日その通りのことをした。
うちからそう遠くないところに荒川が流れてて、それと平行して、いったん荒川と合流してまた離れて、その先からは隅田川と呼ばれるけどその上流にある、新河岸川というのが流れてて、新河岸川とその外側の道路の間に桜が植わってて、それが全部満開になっていた。桜が散るとその半分は川の方に落ちて、干上がっているコンクリートの護岸壁に花びらが堆積して茶色くちぢれていたりする。今はまだ全く散ってなくて、全部が枝にくっついてて道にはなにも落ちていない。

その一方で橋を渡った先にある、新河岸川の何倍も広くて、それを囲う土手はさらにその何倍も広い荒川は、枯れた雑草と野球のグラウンドが見えるばっかりで、冬に来た時とそれほど違わなかった。ただ雑草が少しだけ青く盛り上がっていた。

この土手に沿ったアスファルトの道はどこまでいっても平らで、自転車で走るのには最適なので、ギアチェンがペダルの方にまで何段かあるような、いかにも凝った作りの自転車に、風の抵抗を受けないように頭をグッと下げて胴体を地面と平行にした格好で乗っている自転車野郎が、ビュンビュン走っている。カゴとチェーンが致命的に銹びている自転車をその間に割り入れて走るみじめさといったら……。
昔の曲を聞くはずが、結局つい最近作られた(リバイバルされた)曲を聞くことになった。よく調べるとこの「ツール・ド・フランス」は、テクノの古典といっていいクラフトワークが、同名のレースに捧げた同名のシングルを、2003年にセルフ、リ、コンストラクションしたアルバム、らしい。最近自分は、昔っぽい音とは何なのか、具体的になにがそうさせるのか、そういうことを気にしながら音楽を聞くようになった。
なので、てっきりこれを昔の音だと思って聞いていたので、「こんなに洗練された音をすでに使っているなんて、クラフトワークすごい!」と思ってたけど、洗練されてて当然だった。たしかに前に聞いた「ロボット」とかは、フィルターの動かし方が本当に乱暴だった。
しかしこういった人たちが、たとえばフィルターの上げ下げを、曲の展開とからめるといったような、電子音楽のごく基本的なルールを作っていった。クラフトワークの音は今や完全に古典になっていて、カット・アンド・ペーストされる「サンプル」としてよく使われるという。そんな、不動のものとしてあがめられつつも、もはや「新しい」とは誰もとらえてくれないようになった、クラフトワークの内部の人は、いったいどんな顔をして、2003年に出てきたんだろうか。
坂本龍一がつい最近作った、オウテカめいた不規則な機械音の曲のことを思い出した。それを聞いた時には、新しい音を取り入れるようなことは、やろうと思えば簡単にできるものなんだと、感心したけど、それすらたぶん冗談のようなものでしかなくて、要するに新しく出てきた人が旧い人々の音をそのまま使っても仕方がないのと同じように、旧い時代を作った人たちが今の新しい音をそのまま使うのは無理のあることなんだろう、と思った。時代に関らず誰もがその人の領域を持っていて、外から見ている人には意外なほどそこ(ルール、「音楽というのはこういうものだ」という確信)から抜け出すのは難しいし、もとよりそんなことをする必要はない。
暗くならないうちに帰ったけど、花粉か、くしゃみが止まらなくなった。

十三日目

柴崎友香寝ても覚めても』『主題歌』
『主題歌』「実はわたしも小田ちゃんと同じ気持になってるんじゃないかと思った」。本当に微妙な気持ちについて、書いてある。「喜怒哀楽のどれにも当てはまらない(伊集院光)」。残響。究極までいくと、感情は普通に見える働きをしない。『寝ても覚めても』の「うれしかった」三連発。「麦」という変な名前で、川上弘美、『真鶴』を思い出す。川上弘美は、わりかし、ファンタジー寄り、といっていいか? 『蛇を踏む』から『真鶴』は、なんというか、考えられることだけど、『寝ても覚めても』は、書かなくてもよかった。書く強い理由があった。同じことだ。『寝ても覚めても』について書いているブログを読んだ。正直言ってどれも読む価値がない。なぜなら、その全部が、「麦」と「朝子」という名前が、判明したところからしか書いていない。書評は、そういう風にしか書けない。理解する過程は、恥かしくて書けない。でも、「それ式」の理解の仕方では絶対に『寝ても覚めても』の価値がわからない。ひどいのだと、こんなにも脱臼した文章は、最近ではそうそう書かれないだろうというこの『寝ても覚めても』の文章に対して、「わりと文章は普通なのに、読むのに時間がかかってしまった。なんでだろう」と書いているブログがあった。「ひどいのだと」は訂正。この人は惜しい。この人は、それまで持っていた「普通の文章」というイメージを捨てて、「読むのに時間がかかった」を信じるべきだった。体は正直だ。無意識のうちに『寝ても覚めても』のスゴさに震えている部位がある。「震える」は時節柄不謹慎なので訂正。朝子(わたし)はストーカーなんかじゃない。でもそう読ませようとしているところはあるかもしれない。そう読んだらいけない。なぜならそういう段階で書かれていない。でも「鏡にうつったもう一組のわたしたちが見えて、幸せになったわたしがもう一人いるようでうれしかった」みたいな箇所(うろ覚え)は、それまでの柴崎友香と通じるところがある。『主題歌』は「ありがとう」「うれしかった」肯定的な言葉を肯定するための小説だと思う。