十三日目

柴崎友香寝ても覚めても』『主題歌』
『主題歌』「実はわたしも小田ちゃんと同じ気持になってるんじゃないかと思った」。本当に微妙な気持ちについて、書いてある。「喜怒哀楽のどれにも当てはまらない(伊集院光)」。残響。究極までいくと、感情は普通に見える働きをしない。『寝ても覚めても』の「うれしかった」三連発。「麦」という変な名前で、川上弘美、『真鶴』を思い出す。川上弘美は、わりかし、ファンタジー寄り、といっていいか? 『蛇を踏む』から『真鶴』は、なんというか、考えられることだけど、『寝ても覚めても』は、書かなくてもよかった。書く強い理由があった。同じことだ。『寝ても覚めても』について書いているブログを読んだ。正直言ってどれも読む価値がない。なぜなら、その全部が、「麦」と「朝子」という名前が、判明したところからしか書いていない。書評は、そういう風にしか書けない。理解する過程は、恥かしくて書けない。でも、「それ式」の理解の仕方では絶対に『寝ても覚めても』の価値がわからない。ひどいのだと、こんなにも脱臼した文章は、最近ではそうそう書かれないだろうというこの『寝ても覚めても』の文章に対して、「わりと文章は普通なのに、読むのに時間がかかってしまった。なんでだろう」と書いているブログがあった。「ひどいのだと」は訂正。この人は惜しい。この人は、それまで持っていた「普通の文章」というイメージを捨てて、「読むのに時間がかかった」を信じるべきだった。体は正直だ。無意識のうちに『寝ても覚めても』のスゴさに震えている部位がある。「震える」は時節柄不謹慎なので訂正。朝子(わたし)はストーカーなんかじゃない。でもそう読ませようとしているところはあるかもしれない。そう読んだらいけない。なぜならそういう段階で書かれていない。でも「鏡にうつったもう一組のわたしたちが見えて、幸せになったわたしがもう一人いるようでうれしかった」みたいな箇所(うろ覚え)は、それまでの柴崎友香と通じるところがある。『主題歌』は「ありがとう」「うれしかった」肯定的な言葉を肯定するための小説だと思う。