クラフトワーク


今日は、ポータブル・プレイヤーにクラフトワークの「ツール・ド・フランス」を入れて、それを聞きながら自転車で走った。ふだんなら、「〜〜ながら音楽を聞く」という聞き方を進んですることはなく、シチュエーションによって曲の聞こえ方がそんなに変わるとは思っていないけど、きのうこの「ツール・ド・フランス」を寝る前の、風呂に入ったり洗濯しなきゃいけなかったり、とにかくやることが溜まっているのにパソコンの前を動けない状態の時に聞いていたら、明日は絶対早起きして、あの動いているのが不思議なくらいボロボロに銹びたママチャリに乗って、これを聞きながら川沿いの土手をずーっと走るんだと決めて、そのイメージが頭から離れなかった。じっさい今日その通りのことをした。
うちからそう遠くないところに荒川が流れてて、それと平行して、いったん荒川と合流してまた離れて、その先からは隅田川と呼ばれるけどその上流にある、新河岸川というのが流れてて、新河岸川とその外側の道路の間に桜が植わってて、それが全部満開になっていた。桜が散るとその半分は川の方に落ちて、干上がっているコンクリートの護岸壁に花びらが堆積して茶色くちぢれていたりする。今はまだ全く散ってなくて、全部が枝にくっついてて道にはなにも落ちていない。

その一方で橋を渡った先にある、新河岸川の何倍も広くて、それを囲う土手はさらにその何倍も広い荒川は、枯れた雑草と野球のグラウンドが見えるばっかりで、冬に来た時とそれほど違わなかった。ただ雑草が少しだけ青く盛り上がっていた。

この土手に沿ったアスファルトの道はどこまでいっても平らで、自転車で走るのには最適なので、ギアチェンがペダルの方にまで何段かあるような、いかにも凝った作りの自転車に、風の抵抗を受けないように頭をグッと下げて胴体を地面と平行にした格好で乗っている自転車野郎が、ビュンビュン走っている。カゴとチェーンが致命的に銹びている自転車をその間に割り入れて走るみじめさといったら……。
昔の曲を聞くはずが、結局つい最近作られた(リバイバルされた)曲を聞くことになった。よく調べるとこの「ツール・ド・フランス」は、テクノの古典といっていいクラフトワークが、同名のレースに捧げた同名のシングルを、2003年にセルフ、リ、コンストラクションしたアルバム、らしい。最近自分は、昔っぽい音とは何なのか、具体的になにがそうさせるのか、そういうことを気にしながら音楽を聞くようになった。
なので、てっきりこれを昔の音だと思って聞いていたので、「こんなに洗練された音をすでに使っているなんて、クラフトワークすごい!」と思ってたけど、洗練されてて当然だった。たしかに前に聞いた「ロボット」とかは、フィルターの動かし方が本当に乱暴だった。
しかしこういった人たちが、たとえばフィルターの上げ下げを、曲の展開とからめるといったような、電子音楽のごく基本的なルールを作っていった。クラフトワークの音は今や完全に古典になっていて、カット・アンド・ペーストされる「サンプル」としてよく使われるという。そんな、不動のものとしてあがめられつつも、もはや「新しい」とは誰もとらえてくれないようになった、クラフトワークの内部の人は、いったいどんな顔をして、2003年に出てきたんだろうか。
坂本龍一がつい最近作った、オウテカめいた不規則な機械音の曲のことを思い出した。それを聞いた時には、新しい音を取り入れるようなことは、やろうと思えば簡単にできるものなんだと、感心したけど、それすらたぶん冗談のようなものでしかなくて、要するに新しく出てきた人が旧い人々の音をそのまま使っても仕方がないのと同じように、旧い時代を作った人たちが今の新しい音をそのまま使うのは無理のあることなんだろう、と思った。時代に関らず誰もがその人の領域を持っていて、外から見ている人には意外なほどそこ(ルール、「音楽というのはこういうものだ」という確信)から抜け出すのは難しいし、もとよりそんなことをする必要はない。
暗くならないうちに帰ったけど、花粉か、くしゃみが止まらなくなった。