二日目

次の作家、に行く前に、保坂和志については一日ではあまりに足りないし、大きく影響を受けた評論にぜんぜん触れてないので、今日は評論、に行く前に、前日に引用した『カンバセイション・ピース』のところがまだ気になるというか一番大事なところが言えてなかったので、もう一回、大幅に引用してみる。(新潮文庫版、267〜270ページ)
場面は、主人公とその妻の理恵、そして妻の姪のゆかりが、家の中で話している。この小説では、家の中で話すということが、それだけで特別な意味を持っている(普通とは別の雰囲気を持っている)。その時誰が家の中にある何を見ていて、猫が(猫はこの家族の前の住人の匂いをかいで、その存在を知っているから、家の側に近い)誰の足元にすりよってくるのか、が特別な意味を持っている(普通の小説の場面とは別の注意のし方を形づくる)。
その「意味」とか「雰囲気」がなんなのかは、本当に全部読まないと(しかも出来る限り能動的に)、理解出来ないことなので仕方がないとして、話題は「風呂場で幽霊のような影を見た」という話から、「夫婦っていうのは、恋愛している時は互いのことを激しく考えるけど、そのあとはあまり深く考えないようになる」と夫が言ったあたりから、(結局そのことで不機嫌になってるわけじゃないということがわかるけど)妻が不機嫌になりだす。風呂場の幽霊に対するゆかりや妻の解釈と、夫婦というものはどういう状態なのかということが、語りでも会話でも同時になされる。

 夫婦というのにはそういう情熱や溌溂《はつらつ》としたものを風化させてしまう力が働きつづけていて、当事者の二人はそれに耐えたり、そういうことさえも味わったりする心のあり方を探しつづけなければならない。浮気は溌溂とした感情をもう一度獲得するための一つの手段だろうが(と言っても、浮気を繰り返したらしい伯父にそんなはっきりした意図があったとも思えないが)、いまの私にはこの風化させる力の方にずっと関心がある。映画だって音楽だって十代や二十代の頃のように面白いと思わなくなったし、最初からそういう面白さを期待していない。いま私が若い子を好きになって突然恋愛がはじまったとしたら、しばらくは何も手につかないほど熱中するだろうが、二ヵ月か三ヵ月しか持続しないだろうと、そんなことを考えていたら、
「猫ってすごいよね」
 と、いつの間にか縁側からテーブルの上に来ていたポッコの顎《あご》の下を撫でながら妻が言った。
「ポッコなんて、子猫のときにあんなに可愛《かわい》かったのに、いまでもこんなに可愛くて、可愛さが全然少なくなったりしないで、十三年間ずうっと可愛さがつづいてて、これからもずうっとつづいていくんだもんねえ。
 ねえ、ポッコ」
 妻の声はポッコに向かってしゃべっているうちにどんどん柔らかくなっていったが、
「いきなり、どうしたんですか」
 と、ゆかりに言われた途端に、「全然いきなりじゃないじゃないの」と、元の声に戻った。
「ポッコが目の前にいるんだから、『可愛いねえ』って言うのは、必然じゃないの」
「叔母ちゃんって、猫の話になると文法も脈絡もメチャメチャになりますよね」
 ゆかりが私を見て言うと、「脈絡なんか、ちゃんとあるじゃないの。バカね」と妻が言った。
「ダンナと出会った頃の気持ちは忘れても、ポッコと出会ったときの気持ちは少しも色|褪《あ》せないっていう話じゃないの。
 ねえ、ポッコ」
 と、ここで妻の声はまた柔らかくなった。
「それもこれもひとえに、ポッコがいくつになってもずうっと可愛いからなんだもんねえ」
「それって、代償行為みたい」
「何がよ」

代償行為というのは、心理学用語で、「誰かに愛されないから、その代り自分が他のなにかを愛する」というようなこと。妻が夫に愛されてないから、その代りに猫を可愛がる、ということをゆかりが言おうとしている。こうして説明してみるといかにも陳腐で、だからこのあとはこんな風に続く。

 と、また即座に妻の語気が強くなった。
「え? だから、退屈な日常とか、夫婦とか家庭とかの――」
「あんたバカじゃないの。
『代償行為』とか『退屈な日常』とか、そんなバカな心理学者みたいなこと言ってると、ホントのバカになっちゃうわよ。
 目の前にいるポッコが、こうして見たまんまに可愛いんだから、代償行為も何もないじゃないの。
 雨あがりの空にかかった虹《にじ》を見て、『きれいだねえ』って言うのと同じことじゃないの。虹は雨の代償行為なの? 夕焼けの空を見て、『きれいだねえ』って言うのは、じゃあいったい何の代償行為だって言うの?

この「虹は雨の代償行為なの?」という言葉。というかこの段落全体に、激しく心を打たれた。
夫婦ゲンカは、一番残酷な場合、作者の作意によって、片方の知性が落とされ、それによって決着がつく。またそうでなくても、一言、片方に明らかな間違いを言わせれば、それで納得のいく終わりがおとずれる。
すれちがう会話を作るために、具体的に互いのどこをどうカン違いしているか、というのを設定しておくということもありえる。
そういった納得のいく決着をつける(もしくははっきりと、納得がいかないとわかるような結果にする)ことをしないで、妻に作者の考えうる最大の反論を言わせて(もっともここではゆかりと理恵とのやりとりだけど)、それによって自分の考えを進める。
(というようなことは、この作者自身がいろいろなところでいろいろな言い方で言っている。あと、この主人公はほぼ作者と同じような人物で、妻もきっとその妻と同じような人物なので、妻が言うことは作者に向かって言われる)
そういう書き手の態度が一番ここでよく現われている、とか思ったわけではなく、たんにパラパラとめくっているうちにこのフレーズと、その周辺が気になって何度も読んでしまった。
心理学とその雑な解釈を超えることはこの作者の大きな関心の一つで、たとえばここでは、「代償行為」というフレーズで一くくりにされることによって、猫の可愛さがまるでないことのようになってしまうことに抵抗する。
そしてこんな風に続く。

 だいたいあなたの話は、お風呂場のただの影がどうして、人間は説明する道具でどんな風にもなるとか、遺伝子の乗り物だとか、空っぽの箱だとか、わけのわからない抽象的な方へ飛躍していかなきゃならないわけ?
 影は影じゃないの。幽霊だったら幽霊で、ただの幽霊なんだからそれでいいじゃないの。
 だいたいそこで鳥の羽を振り回してるオジサンがいけないのよ。優柔不断で何があっても一つに決められなくて、ああでもないこうでもない、ああだとしたらこうでもある、ああでないとしたらこうであるかもしれないけれど、こうであるとしてもああであるとはかぎらない――みたいなことをずうっと言ってるから、ゆかりまでそういうのが感染《うつ》っちゃったのよ

ここから先には、たぶん、本当に「ゆかりまでそういうのが感染っちゃった」ことについて、主人公がどう思っているかは書かれていない。
しかし作者は本当に人を感化しやすい人で、じっさい身内はもとより、知り合いや、作家になってからはその作品を読んだ人々をその独特の考え方に巻き込んでいっている。「これって俺が考えたことなんじゃないの?」ということを、他人が喋っていた、ということはきっとたくさんあったに違いない。そういうことについて、どう考えているのか。
「子供に教える」ということに関しては、これを書く五年くらい前に発表された『季節の記憶』という小説の中で、主人公の息子(この主人公も作者と似たような人物だけど実際は息子は今に到るまでいない。作者はこの息子のモデルは飼っている猫だと言っている)が、文字を覚えることに父親が抵抗しようとするシーンがある。
その時息子はすでに幼稚園には通っているはずの年だったけど、父親の考えによって通わせていなかった。だからかんたんなひらがなとかも覚えていなかった。
それから、近所の女の子と遊ぶようになって、その子がすでに覚えている文字を息子に教えはじめた。
父親はいろいろな理由によって、文字を教えるのは可能な限り後回しにしたかった。文字を教えることによって、息子の思考が社会化されると思い込んでいた。
結局息子があまりに知りたがったので教えることになったけど、その覚え方は事前の予想をまったく別の形にひっくり返すことになった。
そこを読み返してみても、本当に泣けてくるけどそれはいいとして、ここでは教えるとか覚えることに対してこんなに慎重になっている。ゆかりが主人公の喋り方をしだしたことについては、どう考えているのか。
この辺に関しては、いっこうわからない。


(引用中のルビは青空文庫記法により底本通り、下線や強調は引用者による)